タイ語講座・読み物8哲学

タイ語講座・読み物8哲学

私自身は、「客観的事実が存在する(ガーン ミー ユー コーン(グ) クワーム チン ティ ティアング トロング (客観的:タッサナ チャーク コン パイ ノーク)(cfコン パイ ノーク モーン ワー)」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、尽き詰めていけば (ムア コン ルック ロン パイ)、 そんなの誰にも確かめられないからですから(コ マイ ミークライ ティ チャ サーマート ピスート ルアン ベープ ナン ダイ)。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らないままにそんなものが存在する と信じていることなのです。 ちなみに、その代表がNHKである、というのが私に持論です。NHKの報道は「公平・客観・中立 (サムーパー(ク) ティアング トロング レ ペン クラーン)」がモットーである、と堂々と唱えています。 「ありえない。(マイ マーク パイ ノイ ロ(皮肉表現 言い過ぎじゃない 言い足りないくらいなんでしょ?)どうしてそんなことがいえるんだ (タムマイ トゥン ダイ プート カム ナン オークマー ダイ ナ) 。お前は神様か(ナーィ ペン プラチャオ ルーヤンガイ カン)?」 といいたくなってしまう。まあ神とまでは言わなくとも、「あなたはイスラム教徒かキリスト教徒かユダヤ教なのか そうじゃないならば、どうしてそんな正しさを簡単に平気で主張できるのか(タムマイ トゥン ダイ ユーンヤーン)」と聞きたくなってしまいます。 こうした正しさを安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことなのです。現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を真剣に考えることなく、ただ自分は「客観的である」と 信じている。だから政治家の汚職問題、たとえば鈴木宗男氏の疑惑が生じれば、「とにかくあれは悪いやつだ。以上終り。 (ヤンガイ コ ターム ナン クー コン マイ ディ ケー ナン チョップ)」で結論付け、断罪して報道する。そこには、明らかに一種の 思考停止が起こっているのですが、本人たちにはその自覚がないわけです。ピーターバラカン氏の言うところの「常識と雑学(クワーム ルー ベット タレット) を混同している」とは、こういう状況を指しているのです。膨大な雑学の 類の知識を羅列したところで、それによって「常識」という大きな世界が構成できるわけではない。しかし往々にして人はそれを取り違えがちです (ナイ クワーム ペン チン マヌット ラオ マックチャ カオチャイ ピット ワー ペン チェン ナン)。 では常識、コモンセンスとはどういうことでしょうか。16世紀のフランスの思想家モンテーニュが語っていた常識とは、簡単に言えば「誰が考えてもそうでしょ」ということです。それが絶対的真実かどうかは ともかくとして、「人間なら普通こうでしょ」ということはいえるはずだ、と。モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前のことでも、あっちの世界では当たり前じゃないことがある (メー ローク ファンニー チャ キットワー マン ペン ルアング ポカティ タマダー テー イーク ファン アーチャ マイチャイ ベープ ナン)」ということを知っている人だった。 もちろん客観的真実など盲目的に信じていない。それが常識を知っているということなのです。
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